120万人を擁する組織は、たった4人で始まった

ロータリークラブ創設者
ロータリーのはじめの4人
左から: ガスターバス E. ローア、シルベスター・シール、 ハイラム E. ショーレー、 ポール P. ハリス

ユニティ・ビル711号室であげた産声

それは、1905(明治38)年2月23日である。このころは、自動車がようやく実用化の段階に入ったばかりで、まだ馬車の方が幅を利かせており、飛行機もそれより約1年ばかり前、ライト兄弟によって発明されていたが、ほんの2~3分間空に浮かぶことができるという程度であった(日本でいえば、日露戦争の終わった年にあたる)。

この年の2月23日の晩、米国イリノイ州のシカゴで4人の人がデアボーン街にあるユニティ・ビルの711号室に集まった。4人というのは、弁護士のポール P.ハリス、石炭商のシルベスター・シール、鉱山技師のガスターバス E.ローア、洋服商のハイラム・ショーレーである。“ガス”ローアの事務所であるこの部屋は狭く、机が1つとあまり掛け心地のよくないいすが4つ置かれているほか隅に洋服掛けがあり、壁には写真が1~2枚と工事関係の図表が掛かっている。当時のありふれた事務所であったようだ。4人は、ポール・ハリスが過去5年の間あたためてきたアイデアについて語り合った。

簡単にいうと、お互いの事業あるいは職業上の結び付きを通じて、友好的交友関係を築くことができるはずであり、またそうするべきであるというのである。仕事の上での関係が、友情の妨げとなることはないと、ポールは考えたのである。

では、ポールが集めたこの4人はどんな人であったろうか。ポールは、その著『THIS ROTARIAN AGE(ロータリーの理想と友愛)』の中で、この点につき次のようなことを書いている。

湖畔(こはん)の一都市を舞台として、一場のドラマが始まった。このドラマがどんな意義をもつものであるか、何人も予測し得たものはいない。
登場人物は、世の平凡な道を行く実業家および職業人であって、必ずしも一頭地を抜くほどの特質を備えた人ではなかった。しかし、一般的な意味で、“立派な人”と表現しても差し支えない人々であり、4人とも気が合っていて仲が良く、めいめい業種の異なる立派な事業あるいは職業を持っていた。彼らは、信仰、人種、政治的意見の相違に関係なく集まった人々なのである。

その晩、711号室で語り合った4人は、話が進むにつれ、職業を通じて結ばれた関係は、個人的な友情に発展させることができるし、またそうすべきであることを、お互いに一段と深く認識し合ったのである。そして、さらに話し合いを続けた結果、このような交友関係をはぐくむためには、何らかのクラブをつくることが一番良いという結論に達したのであった。

ロータリークラブという名称は、このとき、その場で決められたわけではなかったが、実質的には、1905年2月23日の晩に開かれたこの会合が、世界最初のロータリークラブの第1回の会合となったのである。

――ロータリーの始まった日

この文章は、「国際ロータリー・広報提供」として『ロータリーの友』1969年2月号に掲載された「ロータリーの始まった日」というタイトルの記事の冒頭です。ポール・ハリスが若いころ、5年の予定で、放浪生活をしていたことは、ご存じの方も多いと思います。予定の5年に、3か月を残していたころ、弁護士事務所を開くためにシカゴにやってきた、と『MY ROAD TO ROTARY(ロータリーへの私の道)』には書かれています。

大都会につくる信頼関係

彼が3人の仲間と会合を開くに至った道のりはどのようなものだったのでしょう。
同書には、

シカゴに戻ると、またいやな生活を送らなければなりませんでしたが、元気だけはおう盛でした。ウィークデーにはがっかりさせられるようなこともたくさん起こりましたが、それでもまあ、よかったのです――というのは、仕事が忙しくて、自分自身のことなど考えている暇がなかったからです。これに反し、日曜や休日はもの悲しい日でした。日曜の朝は下町の教会へゆけばよかったのですが、長い日曜の午後はどうにもならないほど孤独でした。あの、私の故郷のニューイングランドの谷間の緑の原や、心優しい昔の友人たちを、どんなに恋こがれたことでしょう。

――ロータリーへの私の道

と、その心境が書かれています。

そして、ある晩、私は同業の友人に連れられて、郊外の彼の家を訪れました。夕食後、近所を散歩していると、友人は、店の前を通るごとに、店の主人と名を呼んで挨拶するのです。これを見ていて私は、ニューイングランドの私の村を思い出しました。そのとき浮かんだ考えは、どうにかしてこの大きなシカゴで、さまざまな職業からひとりずつ、政治や宗教に関係なく、お互いの意見をひろく許しあえるような人を選び出して、ひとつの親睦関係をつくれないものだろうか、ということでした。こういう親睦関係ができれば、必ずお互いに助け合うことになるはずです。

――ロータリーへの私の道

このときが、ロータリーの基礎となるインスピレーションを得たときなのでしょうか。しかし、彼はすぐにその考えを実行に移すことはしませんでした。
その理由について、

何カ月も、いや、何年も経ちました。大きな運動を生かすためには、信念をもった人が、しばらくひとりで歩くことが必要なのです。私はほんとうにひとりで歩きました。そして最後に、1905年2月、3人の若い実業家を呼んで会談し、私たちすべてが、自分の村で知っているような、お互いの協力と気取らない友情を深めるための簡単な計画を彼らの前に提示しました。彼らは私の計画に賛成してくれたのです。

――ロータリーへの私の道

ここで、冒頭の文章と日が重なります。誌面の都合で、『MY ROAD TO ROTARY(ロータリーへの私の道)』から拾って簡単に、ロータリー前夜の話を紹介しましたが、ポール・ハリスの、生まれ故郷ラシーンでの出来事から始まり、少年時代をすごしたウォーリングフォードでの生活、5年間の放浪生活、これらのすべてにわたる長い物語があるのだと思います。また、語られることはほとんどないのですが、最初に集まったほかの3人にも、そこに至るながい道のりがあったに違いありません。

20世紀初頭、シカゴ・・・ロータリーに適した都会

ロータリーのような運動が始まる時期としては、この20世紀の初めほどよい時期はあり得なかったでしょうし、それを育てる都会としては、男性的で、しかも積極的な、この矛盾に満ちたシカゴほど、適した町はほかになかったろうと思います。当時シカゴがなやまされていた悪は、アメリカの至るところに見られました。概していえば、ビジネスは毒されていたのです。消費者や従業員、あるいは競争相手といったものに関して、高い倫理的な基準にあうようなことは行われていなかったのです。自分たちの住む町を良くしようなどという精神は、ほとんどどこでも低調でした。すべてが良いほうに変わってゆくべきときでしたし、そういうときがこなければならなかったのです。

シカゴというアメリカの中西部第一の大都会から、そして人種的、政治的、経済的、宗教的な極端と極端とが出会い、衝突し、そして究極的には、何か均質なものができ上がりつつあった大きな社会の渦巻のなかから、ロータリーは姿を現わしたのです。現在でも、人種の坩(る)堝(つぼ)アメリカはシカゴでなおはげしく煮えたぎっています。愛国的な市民たちは、最後にはおいしい料理ができることを心から信じながら、質のよい材料をこの坩堝のなかに入れる努力を続けています。ロータリーは1905年、湖のほとりの町で上演されていた芝居の一場面だったのです。この場面の登場人物は普通の階層の人たち実業家と専門職業人でありました。同種の職業の他の人たちととくに区別されるような点はないかもしれませんが、この人たちは、よく使われる言葉で「社会の有益な分子(ベター・エレメント)」と名づけてよい人たちを、かなりよく代表していたといってよいのではないでしょうか。

ポール・ハリスは、ロータリーに至った背景をこのように表しこの章を結んでいます。これが、現在、世界に120万人を擁する国際ロータリーの、草々の物語です。